山東省の観光~中華文化に名を残す山東省を巡る~

水泊梁山 水滸伝の再現

「水滸伝」と言えば、すぐに「梁山泊」を思い出します。水滸伝の108人の英雄・豪傑の義侠心に満ちた行動を想うと、今でも胸が熱くなります。世の中が移り変わり、当時の梁山の豪傑が立ち上がった時の空や背景は二度とよみがえらないにもかかわらず、人々は依然として実際に存在する物語の発生地へ向かい、天罡星三十六星、地煞星七十二星(=「水滸伝」に登場する108人)の義侠心と雄々しい気概を感じます。

「水滸伝」の物語の発生地は、主に山東省西部の聯城から西南部の鄆城のラインに集中しており、その間には、武松が戦った聯城・景陽岡と獅子楼や宋江の故郷・鄆城、衆家の豪傑・聚義の梁山などがあります。

聯城は、水滸伝の英雄の中の武松が登場する舞台で、中でも「武松がトラを退治する」という物語の景陽岡や、さらに、兄・武太郎の復讐の為に怒って西門慶を殺害した獅子楼があります。

景陽岡は、陽谷城の東18kmのところに位置し、当時は林に覆われてトラが出没していましたが、現在は砂丘になっています。さらに、武松廟が建てられ、「景陽岡」と「武松がトラを退治した場所」の石碑が並立しており、ここが当時、武松がトラを退治し英雄として有名になった場所であることを証明しています。陽谷県城の旧跡「獅子楼」は、大隅首の西南角に位置しています。当時、武松が怒りから西門慶を殺害し、兄・武太郎のために復讐を果たした場所です。2階建ての獅子楼は、宋式の建築物で、耐火レンガを使用し、屋根の上半分を瓦、下半分を石灰で葺いてあり、精緻で細やかで、楼の前の2対の石の獅子の気勢にはなみなみならぬものがあります。

梁山の豪傑の巣窟を現地取材

「逼上梁山(=追い詰められて窮余の策として梁山へ逃げ込むの意味)」の梁山は、鄆城、寿張、東平の3県の間に位置し、現在は梁山県として行政上区画されています。梁山の山は高くなく、周辺の地勢も低く連なり、古代は巨大な湖だったものが縮小して東平湖となり、唐代・宋代には黄河が決壊して浸水地域となりました。梁山の峰々が湖中の小島に変り、「梁山泊」の名称を得て、伝説中の梁山の豪傑である「替天行道(=天に替わって行うの意味)」の根拠の地となりました。

梁山の合計11ある峰は、いずれも水滸伝の遺跡で、最も高い海抜200メートルの虎頭岩が「梁山の砦」の遺跡の所在地で、荒れ果てた垣根・石垣に触れると、聚義庁の豪傑、天に替わって正義を行った杏黄色の旗が目の前に見え隠れするようです。虎頭岩の唯一の山の北側の「黒風口」ルートは、当時、黒旋風李逵が守った要所であると言われています。

今日まで梁山地区は依然として水滸伝の大きな影響を受けており、梁山人はそれぞれが真っ正直で義を重んじ、酒を飲めば豪快でさっぱりしており、武道を尊び、武芸を学んでいます。梁山を訪れれば、水滸伝の昔から残っている梁山の風習を以心伝心で必ず理解できることでしょう。

宋江の旧家を尋ねよう

108人の豪傑

「水滸伝108人の豪傑のうち、72人が鄆城に」と記述されているように、水滸伝の中の鄆城はすばらしい場所です。大親分・宋江の故郷は鄆城県水堡郷にあり、晁盖、呉用いずれも鄆城の豪傑です!鄆城を旅する際の、豊富な観光資源はいずれも水滸伝の情景で、智取生辰網(=水滸伝の中の1つの物語の名前)の黄泥崗、宋江殺惜(=水滸伝の中の物語を演劇化した劇名)の烏龍院、神の書いた手紙を夢見た九天玄女廟、宋江の旧宅など、これらはほとんどすべてがそのまま残されている水滸伝の舞台です。

宋江の武術院

水滸伝の鄆城に対する最も大きな影響は、梁山と同じように、武術習得の雰囲気が極めて盛んになったことで、当地の著名な「宋江武術院」は、光栄にも中国十大有名武術館のトップに上りつめ、予想通りに、水滸伝の豪傑の名にも劣らないものとなりました。

実際には、鄆城は水滸伝の前から歴史書に名を残していました。春秋時代、魯国の魯昭公が年若くして即位し、一日中遊びふけっていたため、最終的に自身に実権があるとする魯公家族三桓の季孫氏に攻め打たれ、斉、晋へ逃げ、最後には晋で亡くなりました。昭公は逃げる際にまず鄆城に到達しましたが、遊び好きで酒色におぼれる生活を改めず、鄆城を混乱した暗黒の状態にしてしまい、昭公が晋へ移ったとき、鄆城では身分の高いものから低いものまで「如釈重負(=重荷を下ろしたようにほっとするの意味)」しました。「如釈重負」という成語を耳にする機会があったら、山東省鄆城のことを思い出してください。